うらうらにわ

はきだめ

手を動かして学ぶ人には独特のゾーンがある

だいぶ心労が減ってきていろいろと歯車が噛み合ってきたなあという今日この頃です。ただ、考えごとは尽きないのでこうして放出しているわけではありますが。

 エンジニアなら手を動かして学んだほうが効率がいい、というのがようやくわかってきたかもしれないという話です。

 

この言葉は3年くらい前から最初の師である教授に言われていて、ただずっとその感覚がわかりませんでした。いや、わかりませんでしたというと語弊があります。わかってはいたんです。11歳の頃から楽器をやっていて、そのときはその感覚で練習ができていました。手を動かして、でもうまくいかなくて、こうしたらうまくできるのかなと考えながらずっと手を動かす。結果的に、ずっと集中して黙々と作業をしていられたんですね。これを技術を勉強する間も発生させられたらいいのになとずっと思ってきました。

 

ただ、そのときわかっていたのは、「自分にはそこそこ辛くても好きだと思えることなら集中して取り組めるんだな」ということだけで、「ものを好きになる過程」というのはわからずにいました。その答えへの仮説が、「自分が好きになりたいものを好きと言いながら、既にそれで気持ちよく生活している人の中で一緒に生活し、その気持ちよさに共感できるようになる」というものでした。思えば3年半の研究室生活は全てその為に費やしていたのだと思います。自分と周囲との感覚の違いにひたすら苦しんでいた気がします。ただ少し、環境が変わりようやく肩書が「ほんとうに」エンジニアになったことによって、やっと自分の欲しかった感性が体に染み込んできたかなあと最近思うのです。

 

「手を動かして学ぶ」というのも、もしかするとその感性が持つスキルの一つなのではないかなと思います。ただ、その一言で片付いて手に入るようなスキルではないと思うなあ、とも思うのです。個人差はあるんでしょうけど、それでもやはりその経験が得られる過程(自分に足りない人生経験を正確に把握してそこを補填する能力ともいえます)がなければ、そこにたどり着くのは難しいんだろうなと思います。というか、単純にめちゃくちゃ苦労して自分がここまで来たという気持ちがあるのでそれを垂れ流しているだけだと思います。すみません。

 

冒頭で紹介した本に、「メンタルモデル」という単語が紹介されています。「こうしたらこうなるんだな」という、原因と結果が結びついて脳内でセットで処理できるようになる思考法のことです。情報として暗記するのではなく、体験をすることによって体に定着させること、これが技術を学ぶ上で非常に効率的かつ重要です、というような意味の文章が出てきました。これだ、と思いました。

 

これ、なんで自分がこんな簡単に説明できるものの習得にここまで何年も苦しんでいたかというと、一言で言うなら恐れです。もっというと、やはり感性というか、価値観というか、固定観念というか、こころの問題というか、そういうものが邪魔だったからです。例えば、「いつ何時もできるだけ間違わずに、正解により少ない手数でたどり着いたほうが優秀である」とか、「間違えたら何か良くないことが起こる」とか、「それによるダメージが予測できないから安易に手が動かせない」とかです。「わからないことを聞いたら何か良くない返答が返ってきそう」というのもそうです。いろんな方向性から間違うことに対する恐怖があったのですね。それはシステムに亀裂が入ってしまうかもしれないとか、周囲の人間関係に亀裂が入ってしまうかもしれないとか、そういう多面的な恐れです。自分がネガティブなのも相まって、このこころがしんどいのを誰に打ち明ければいいのだろうというようなこともよく考えていました。周囲にそれも伝わっていたのかもしれませんが、どうにもできませんでした。未熟でした。

 

つまり、間違いにビビる性格特性というのは森羅万象に適用されるのです。人間関係もそうですし、システムが相手でもそうです。つまり特定のものごとに集中するには、自分のメンタルに最低限の安心感が必要なのです。追い込まれて出る集中力もありますが、それらは基本的に健康的ではありません。緊急事態には発動できますが。思うに自分はそっちの集中のエネルギーでしか勉強がまともにできたことがなかったのでしょう。だから夜中まで作業できたし、そのくせ真の楽しさは得られなかったのです。真の集中力も然りです。そしてそれを是とする原動力で選んだ環境では、もうその原動力以外で自分を動かすことはできないのです。本当に申し訳ないことをしたと思っています…

 

自分の夢である職業に対して、こういう命を削るかのような危ない集中力の使い方を本来は可能な限りしたくないし、なんというか、ぎりぎりになって夏休みの課題を終わらせるような気持ちで一生を過ごしたくないのです。そのためにも、正しい集中力の出し方をこころの健康の観点から見ていくことは、わりと重要なのではないかなと最近思います。自分にとってなんの心配もなく好きなことができる環境というのは、ほんとに得るのが難しいのです。毎日感謝と懺悔をしてもし足りないくらいなのです。

 

なんか色々書いてしまってこれ他人に見せるの嫌になってきたんですけど、正直に思うことですので供養させて下さい。。これが自分にとっての前進になると思うから書いているので、許して下さい。もう少しで掴めそうなんだよなあ。

集中力と音楽選考の心理学

自分にとってどんな音楽が最も集中できるかを調べたくて作業中につい色々見てしまったのですが、個人の性格特性を表すのに有効であるとされているビッグファイブと、音楽の選曲を比較した研究があるそうなのでメモです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E9%81%B8%E5%A5%BD%E3%81%AE%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6

外交的な人は日常の退屈を凌ぐ為に音楽を使っているそうです。ぼくなんか常に頭の中がどうでもいいことでぐるぐるしてるから一生退屈なんかしたくてもできないですけどね…。これ以上外的刺激なんか増やしてどうすんだって感じですね。また、神経症的傾向が高い人ほど音楽に情動的な反応を強く示したとか。これじゃん。誠実性が高い人ほど反社会的な音楽に拒否反応を示すとかなんとか。ぼくも曲がりなりにも人生の半分くらいは音楽やってるんで、反社会的とかって言葉使うのは気が引けますけど、言わんとしてることはわかります。このへんが自分の作業用BGMを選ぶときに参考になりそうです。聴き入るとかえって集中できないし、でもリラックスはしたいし…。環境音なんかもいいのですが、夜中に聴いてると眠くなるし、これは昼間かなあ…。あと、悲しい時にメタルを聴くとこころの鎮静作用がある気がするのでたまにそれはやります。どこかに根拠があったはずなのですが、どこで調べたかは忘れました。

追記。

https://daigoblog.jp/different-talent/

自分が外部刺激に弱いところも集中力が特定の場所で出せるところもあるのだとすると、如何に刺激を断ち切った環境を作れるかが大切なことがなんとなくわかってきました。あーいやでも断ち切りすぎはよくないのかな。それと、自分の中から湧き起こる雑念に振り回されることがものすごくよくあって、精神的に悪影響が出るネガティブな反芻思考は長い時間をかけてほぼ打ち消したのですが、この考え事自体とは良くも悪くもずっと付き合っていかなければならないんだろうなあとは思っていて。結局外的刺激がなかったとしても頭の整理してたらそれは内的ストレスにカウントされるっぽいので、外的刺激がないだけでもいかんのだなあと。少なくともこんなこと考えてる間に時間は過ぎるわけですから…。

・外的ストレスと内的ストレスのバランスの中間地点に集中できるポイントが存在

・そのストレス量は体力の残量によって調整される

・人と関わらないのに変に体力が残ってるとそれは過充電

・外部刺激に敏感になって拡散思考になって体力ゲージを丁度いい所まで削る

・食欲睡眠欲について何も心配しなくていいちょうどいいラインが存在

・集中できるときが来たら音楽より環境音に行きつく(波音)

・部屋を暗くする、カフェインを操る、軽い運動をする

どうしたら集中できるか考えてる間に集中力が切れてしまうことはよくある話なので、なんとかしたいです。とはいえとっさの考え事は新しい自分のライフハックの発見のためには必須なのでだいたい思いつくものは拾いつくして普段から生活しているのですが、さすがに毎日そんなに時間的余裕があるわけでもないので、考えすぎもよくないなと自覚しつつ。ぼくは自分がうまく集中できないことに対していらいらしてしまうことが割と多いので、そこが根源なのだとするとこの手の悩みは逃れようがないのかもしれませんが。何かに悩むときはいつも楽しさ半分、めんどくささ半分です。

情報に喜ぶ人、感情に喜ぶ人

後輩に某サイトで心理テストをしてもらったときのことです。ぼくの頭の中は男っぽさが半分、女っぽさが半分と診断されました。その時は「まあたしかにそうだな」とだけ思っていたのですが、同時にまだまだ自分が本業の人間関係において本調子じゃない理由を探していた時期でもあり、何故かこれが手掛かりになるような直感があるままずっともやもやしていました。

というのも、男性は論理で考え、女性は感情で考えるという言葉があります。別に性別で分割する必要は無いんじゃないかと思うのですが、これはなんとなくいい得て妙だと思っていて、それでいうとおそらく、ぼくは自分の心の中の感情も情報にまみれた現実も、どちらも大切にしたいという思いが毎日自分の中で拮抗しているのだと思います。なので、その時点では、「ああ、情報に触れる時間と感情を解放する時間、ちゃんと分けてどちらも大切にしよう」という結論に至り、土日にスマホばっかり見ないで音楽なり自然なり芸術なりに触れる生活を始めました。

ただ、結構いい線行ってて少し気が楽にはなったんですけど、これだけだとなぜかまだ本調子は出なくて、やはりここしばらくうまく行っていなかったのですが、また少しその原因が分かりました。

https://anond.hatelabo.jp/20190531130225

上の記事のやりとりとツイッターで誰かが言ってた言葉を整理するに、なんかオタクとそうでない人には会話で喜ぶポイントに違いがあるらしいと。どちらがいい悪いではなくて、会話の中にはおそらくふたつタイプがあって、文章の中に埋め込まれた情報を共有することによって心を通わせるタイプと、言葉が意味する感情を投げ合うタイプがあるらしく。世の中にいるオタクと言われる人たちは前者で会話するパターンが多いと。

これだけでも「ああ、オタクと仲良くなるにはこういうものの見方をすればいいのか」という学びにはなったんですが、もう少し考えてみると。

ここではオタクかそうでないか、という分割がされていますが、ぼくがオタクになりたいか否かはどうでもよくて、以前自分の中に感じた男性性、女性性、つまり「情報でのコミュニケーション」と「感情でのコミュニケーション」という感覚の分割と似たようなことをしてるなと思って。もし他人と絆を深める方法がふたつあって、情報を共有することによって安心感を覚えて絆が強まるパターンと、感情を共有することによって絆が強まるパターンがあるとしたら、それさえ見極められれば、相手によってより柔軟にこちらの心を開けるのではないかと。

これは相手の性格だけでなくその場の状況に応じて変わることもあって、例えば仕事では情報共有すると安心感がありますし、友達とのコミュニケーションなら感情を共有できたほうが仲良くなった感じがします。おそらくそういう使い分けで他人との心理的な距離というのは縮まるんでしょうね。このタイプが違うと、そういうやさしさはいらないんだよな…とか、なんか疲れるな…とか、それは興味ないな…とかなるわけで、ただせっかく自分の中に半分半分でそのコミュニケーションができる思考回路がついてるなら、これはもっといろんな人と楽に会話できるようになるためのコツとして使えるんじゃないかなと思ったわけですね。

結論、すっきりしただけです。

あけましておめでとうございます

 

新年でキリがいいので、さぶぶろぐを発足することにしました。

 

2019年は色々あって、自分は本業に打ち込むだけじゃなく、考えることそのものが好きなんだなーと気づいた年でありました。

あんまり頭の中の完成してないものを他人の目の届くところに置くのは好きじゃないんですけど、だんだん頭の使い方が変わり始めていて、そうも言ってられないなと。

少し前までぼくは頭というものを、知識を詰め込んで自分が今いるコミュニティに適応するためのものだと思って使ってきました。仕事に対する印象そのものともいえるかもしれません。いや、厳密にはまだ社会人ですらないのですが。

でもそれって本当は違って、知識を得たら、そこで何かにはっとして、気づきがあって、感動があって、それが次への原動力になるというか。それを喜びにしないと苦しくなるというか、そもそもそれがないと人間って生きられないんじゃないかと思うようになりました。

去年1年で一番変化したのは、自分の考えをちゃんと持つことって楽しいんだなと思えるようになったことだと思います。もちろん間違いも沢山あります。指摘されて自分の考え方を正すのはそんなに簡単なことじゃありません。でもそれが楽しい。

というわけで、そんな気持ちをここに残すことになりました。

 

ぼくはそろそろ社会に出てエンジニアになる(予定な)んですけど、悲しいことに技術の話だけがずっとできるような人種ではないようです。ただ、本業で何年後に役に立つか分からないような抽象的な考えごとも自分にとっては必要不可欠で、適当に動画見て寝て、次の日の朝風呂でなんとなく考え事するみたいな、そういうのがないと本業に打ち込めないんですね。だから、そういう日記じみたものは、単純に技術的なノウハウを求めてぼくのブログを訪れてくださっている方の思考のノイズを減らすために、別で分けたほうがいいなと思ったんです。

このブログは万人に見てもらいたくて書いてるわけではなく、自分のこころを落ち着かせたいがために書くだけの小部屋のようなものであればいいなと思っています。

また、もうひとつ自分がこれを日記でなくブログにする理由があって、それはほんとうにぼくが大切にしたいと思う相手にぼくのことを誤解されない為です。

ぼくはたぶん曲がったことは嫌いで、これと決めたことをがっとやることはできるんですけど、その分思い込みの激しい人間で、周囲と噛み合わなかったり人間関係においてお互いに我慢する部分がまだまだ多いように思います。その所為で自分はまだまだ、人が苦手だという小学生の頃からの固定観念がこころにこびりついています。その誤解をお互いに少しでも解くために、うまく自分の素が出せるようになるために、そう言う考えごとが好きだなあと思ってくれるどこかの誰かと面と向かって心の通った話ができるようになる日を待ち望みながら、その前段階としてまず自分の長い長い本心を「必要な人が」「必要な時」読める場を作りました。

 

今年は自分にとって節目の年でもあります。今までお世話になった方々とこれからお世話になる方々に感謝の念を込めて関係者の皆様への新年のあいさつといたします。未熟者ですが本年もよろしくお願い致します。